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Twitter / ntk_as_dc (via 774) 2011-03-31 (via gkojay) |
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ムッソリーニは第一次大戦で重症を負ってます。経歴をみても勇敢であることは疑えませんが、興味は「兵士の気合」だったのでしょうか?東條ドノも察哈爾作戦をやってますから、並みの参謀将校より経験も実績もありますが、力の入る所は「兵士の気合」です。そのうえ「懲罰徴兵」や「南洋島送り」をやりました。本来名誉であるべき召集や最前線行きを懲罰にしたのですが、本音のまま行動したとみるべきか、「戦陣訓」の調子かわからないところがあります。
一方、ヒトラーの軍事的才能は疑いないでしょう。徒手空拳でヨーロッパを征服しましたから。問題は軍事より政治的判断能力では?例えばフランス戦では陽動でオランダとベルギーに攻め込みました。ベルギーはともかくオランダへの侵攻は、フランダース方面をくっきり主攻とみせるだけの目的です。もしオランダに侵攻しなければ、戦後、オランダにハンガリーやルーマニアと同じく親ヒトラー政権が樹立され、枢軸国ができたに違いありません。そうすれば、インドネシアが枢軸国になるので、極東情勢は大きく日本有利に転換するはずです。この辺りの政治的変化は予見できるはずで、しなかったのは軍事のみを考えたためです。
逆に独ソ戦についてはイギリスとの外交を中心に考えたので、こちらは誤った外政方針のみで軍事的側面を棄てたともいえます。ヒトラー的というより、ドイツ的ドクマティズムのなせる業のような気もしますが。とにかくヒトラーに外政能力はないとみます。
スターリンは地球儀を抱きかかえて、作戦命令を出していたみたいですね。権力が集中しすぎてたんでしょうね。教員の採用から野坂参三の配置まで決裁してたら、いくら独裁者でも死にそうですよね。秘書のボスクリョブイシェフというのは相槌をうつだけだったようです。当時のソ連国歌に「スターリンは我らを、人民に忠実なれと育て、労働や偉業へと励ます」という1節がありました。ユーロコミュニズムはこれを批判したようですが、日本を含むアジア共産党は異を唱えていませんよね。こういった「アジア的」体質は嫌ですね。アメリカ人はドイツ国家から「世界に冠たるドイツ」の削除を命じました。昭和天皇が西ドイツを旅したとき、ライン河でドイツ国家が流れ随員が「国歌ですな」といったとき、「そうだが違う。『世界に冠たるドイツ』のところだ。これがドイツ人の私への気持ちだ」といったといわれます。
アメリカ人もドイツ国歌に文句をいうのであれば、ソ連国歌にもいわないと駄目ですよね。
結論から先にいえば、文明など戦争の原因ではありません。あるいは結果の可能性はありますが・・・。同様に「血は水より濃い」も誤りです。アング ロ=サクソンの本貫はドイツのニーダー・ザクセンであり、英米人と同じような顔をしているのが住んでいます。大衆は大戦争が起きると、その背後に秘密の 「高邁な哲学」があるのではないか、預言者として独裁者が「民族あるは文明の旗手として本願」を遂げるためではないか、などと邪推してしまうわけです。
実は、大多数の戦争は、そこに「Easy Prey」がいる、速戦即決で叩き潰せる、もしくは今やらねば、敵に速戦・即決をやられる、と思い始めるだけです。それゆえ抑止が難しいわけです。
日露戦争の前のロシア人は図演をやっていたように、ある程度の軍事評価はできていたんですが、問題はまさか日本が開戦を決意すると信じることができなかったわけです。この点で太平洋戦争前のアメリカと似ています。
そもそも、ロシアに攻め込む国があるとは思えなかったんでしょう。そして、ロシアは日露戦争前はドイツ・オーストリアを問題にしない大陸軍 国であり海軍国でした。クリミア戦争でも露土戦争でも独墺は不本意ながら好意的中立を維持しました。つまり、ボスニア危機にみられるようにロシアがドイツ に可愛がられるのは、日露戦争の結果です。
ロシアにとり不倶戴天の敵はイギリスであり、それゆえニコライ二世は日本人を「猿」イギリス人を「ユダヤ人」と呼んでいたわけです。もちろ ん20世紀で、ロシア=ソ連に挑戦したのは日本とヒトラー・ドイツだけであり、アメリカに挑戦したのは日本だけです。他は全て逆です。これは端的な事実で あって、誤解をおそれずいえば、世界のだいたいの人々は好戦的な国民として、日本人が第一、ドイツ人が第二とみています。
明治憲法はプロイセンまたはドイツ憲法の猿真似だと日本の教科書は書くわけですが、日本とドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシアと決定的に違うところがあります。
それは、伊藤博文にせよ西園寺公望にせよ、政党政治を目指し、自ら立憲同士会や政友会を組織しているからです。
ドイツのビスマルク、カプリビ、ビューロウ、ベートマンは超然内閣(ビューロウは多少工作したが)であって、政党とは独立しているわけで す。更に、ロシアのウィッテやストルイピンは優秀な政治家だと思いますが、政党を組織することには興味を示していません。また。この政党とは近代政党すな わち議員政党であって、共産党のような党員党ではありません。昔から政治ゴロとギャングを分けるのは議員(選挙で選ばれた)かそうでないかしかありませ ん。
また、当時の日本人が新参者のウブだと読める記述も多いのですが、西園寺がベルリン公使のころの記述ではビスマルクなど呑んでいて「ケッ、また同じことを言いやがって」と書き残しています。
第二回ハーグ平和会議(1908)で、既に日本は常任幹事すなわち米英仏伊独露と同じ地位にありました。残りがキリスト教はひっかかります が、朝鮮の高宗の使者が相手にされなかったは。エチオピアが相手にされない、と同じ状態です。イタリアの当時の政党政治の状況は独露より進歩していたと思 いますが、リビヤはともかくエチオピアの招請に努めたのは、イギリス人(ビクトリア女王がエチオピア皇太子をバルモラルで自ら育てたことへの反感?)へに 意趣返しでしょうか。
しかし、515事件から日本も超然内閣に戻り、林先十郎などは政党政治家には離脱証明を求めています。なんという退歩かと思います。ちょう ど、斎藤隆夫の反軍演説があり、朝日新聞は「斎藤除名」の論陣を張り、「政党政治を亡ぼそう」と叫んでいました。この新聞、今でも政治不信とか政党政治の 終わりとか、がなりたてていますね。
「戦前の貧しさ」ですが正確にいえば、1937年8月から1956年ごろまでの貧しさです。1937年すなわち昭和12年の前は、困ぺい糖さまが見 たグラビア雑誌は現在のものと大差ないはずです。そして昭和12年から昭和31年までは、カストリ誌の時代で粗悪な紙しかなかったわけです。
ではどうして紙質が悪くなったかといえば、政府の命令のためです。1938年から国家総動員法(内容はあまりないが、各企業に役人・退役軍 人を派遣=天下りさせコントロールしようとした)が施行され、政府が雑誌・単行本の紙質を落せと命令したんです。まあ、国民に精神的な窮乏感を与えようと したんです。これはGNP低下要因となります。紙の原料に古紙を混ぜる比率を増やせば、松材の伐採は減りますが・・・。
このように消費財について代用品生産が命じられたのですが、これは第一次大戦のときのドイツを経験してやろうという役人の実験でした。これ を実行したのは、いわゆる革新官僚で、市場経済(自由主義経済)から統制経済への移行を目指したわけです。目的は物資を数量でコントロール(物動)しなが ら、軍需生産を増強しようとしたのです。ところが一向に軍需生産は伸びませんでした。最初に本格戦争に入ったドイツの軍需品生産ピークは1944年ですが 日本は1942年です。つまり、物動はかえって軍需生産を落としたんです。
なぜこのようになるかといえば、役人が企業経営をやると設備投資ができません。設備をやるよりは、単年度の軍需生産を最大にしようとするた めです。このため昭和12年をピークにしてGNPは下がり続け回復したのは昭和29年です。そして一人当たりGNPが戦前の水準に戻ったのは、昭和31年 のことです。これは第一次大戦、第二次大戦の主要参戦国の中で第二次大戦後のイギリスに次ぐ最悪の記録です。日本の高度成長というのは昭和35年からのこ とで、それまでは「国家総動員」「復金融資」「傾斜生産」「窓口規制」などの国家介入により日本経済はズタズタになってしまっていたんです。
よくこれを戦争のためだと説明されますが、誤りです。第二次大戦における日本の人的被害は155万人戦死、64万人民間人死亡で、独ソと比 較して大きいものではありません。国冨の損失も34%でドイツと変わらないんです。にもかかわらず大幅に復興が遅れたのは統制経済と役人の無能のためで す。第二次大戦後のイギリス経済の失敗が産業国有化政策にあるのと軌を一にする問題です。
つまり「戦前の貧しさ」とは「統制経済の時代(1937~56)の貧しさ」とすべきでしょう。当時、普通に物資(砂糖や食用油の類)を売り買いしても経済警察が飛んできて、また新聞は「ヤミ市」だと悪罵を浴びせたわけです。
正確な資料がないので即断は出来ませんが、ロシアのムジークには親子間で暴力を日常とする風習があったようです。凄いと思うのは「子供も親をぶん 殴ってヨシ」で、ラスプーチンはしょっちゅう父親と殴り合いをしていました。しかし、父親が死去すると、大声で泣いて哀悼の意を表したので、愛情がないわ けではないんですね。
しかし、スターリンは母親の暴力教育に疑問を抱いていたようで、書記長に就任してから「お母さん、何でボクを殴ったの?」という趣旨の手 紙を送っています。とはいうものの、彼は優れたボクサーとして活躍していた時期があり、グルジア時代のボクサー仲間を死ぬまで親友として扱っていました。 共産党の「同志」に対する仕打ちを考えると、あまりの落差に唖然とします。